平 真実(指揮者)
今回の三曲のプログラムは、それぞれに関連がある。一曲目の「ジークフリート牧歌」と三曲目のH.ロット「交響曲第一番」は同じE-dur(ホ長調)。ロットはR.ワーグナーの影響を強く受け(第一回バイロイト音楽祭を訪れてもいる)、ワーグナーと二曲目に演奏するF.リストは友人であり義理の親子。またロットの「交響曲第一番」とリストの「ピアノ協奏曲」は、循環形式(一つの主題が全曲を統一する)という共通点がある。つまり、三曲ともそれぞれに何らかの関連を持つプログラムになっている。また、演奏会自体が「ジークフリート牧歌」のE-durの小さい音から始まり、「交響曲第一番」のE-durの穏やかな和音で終わる。調の循環でもあり、演奏会の最後は、優しい気持ちと儚い夢が天上に消えていくイメージになろうか。
フラットフィルハーモニーの第7回演奏会は、誠に意欲的なプログラムである。意欲的というよりも、かなり挑戦的かつ冒険的でもある。いずれにしても、お客様には、今までのフラットフィルのイメージとは違う、大音量かつ華麗で新鮮な音楽を聴いていただくことになるであろう。
R.ワーグナーとF.リストについては、それぞれあまりにも有名な作曲家であり、いまさら何かを書く必要もないであろうから、ここではH.ロットについて書いてみようと思う。
【H.ロットとの出会い】
私が彼の作品と初めて出会ったのは、6~7年前に、とあるオーケストラから「H.ロットの交響曲第一番を指揮してくれないか」という話しをいただき、送られてきた楽譜を読んだ時であった。その当時はこの作曲家の作品はおろか、名前すら知らなかったが、「この曲は面白い」と強い印象を受けた。当然ながら「マーラーに似ているところがたくさんある」「ブルックナーにも似ている」「ワーグナー的でもある」「ブラームス的要素もある」ということが最初の所感であったが、ロットがマーラーよりもかなり前にこの作品を書いたことを知り、驚愕した。
結果的にこのオーケストラと共演することはスケジュールの関係で叶わなかったが、それ以来、ロットの交響曲を演奏する機会が訪れるのを、私は心のどこかで待っていたのだと思う。
ロットの生涯等については、演奏会会場での配布プログラム、あるいはホームページ記載の別項を参照いただきたいが、ロットは、いわば、生まれながらにして不幸な生涯であった。私生児として生まれ、両親とは10代で死別しており、経済的にも苦しい環境であった。ただし、その「不幸感」は、音楽の表面からはっきり見ることはできない。確実に才能には恵まれていた。しかし、その才能(特に先見性や革新性や特異性)の発芽による世の中からの反感の目を受け止める精神的タフさがなかった。これが残念であり、結果的に精神を病み、自死に近い形でわずか26年の生涯を閉じるという悲劇につながる。
ロットは、交響曲第一番(一楽章のみ)を音楽院の卒業コンクールに出品したものの、多くの審査員から嘲笑を受け、ロットの作品のみが卒業コンクールで落選した。また、その後、全曲を通じてブラームスから酷評された。こうした事柄は、今の観点では「なぜだ?」「ブラームスは見る目がないのでは?」ということになろうが、ある意味当然でもある。例えばこの曲は、(少なくとも当時のウィーンで)重要視されていた厳格なソナタ形式から明らかに逸脱しており、当時の審査員の感覚からは、調性も含めて「交響曲としては不適格」と判断されてもなんらおかしくない。いや、むしろ当然の反応であったろう。同じコンクールに出品し当選したマーラーの室内楽作品は、現在は残っていない。それは、「大した作品ではないから残っていない」という側面はもちろんあろうが、むしろ「当選するために出品した作品」であって、マーラーが「思い描いた世界を渾身の力・才能のすべてをぶつけて書いた」作品ではなかったからでもあろう。言うなれば、ロットは、「作品を出す場」「聴かせる相手」を間違えたのであり、単なる世間知らずという言い方もできる。これは、同曲が、別の観点から審査される奨学金の審査には通ったことからもわかる。
【交響曲第一番ホ長調について】
今年(2019年)は、この曲が英国の音楽学者に再発見されてちょうど30年になる。また、作曲されてほぼ140年(作曲期間:1878~1880)でもある。ロットが弱冠20歳の時の作品(2楽章以降は、音楽院での落選が決まって以降に書かれた)で、この当時は、ブルックナーも交響曲第六番を書いたばかり(出版は第三番まで)。また、マーラーの交響曲第一番は、この10年後に書かれた。
マーラーとの近似性(というよりも、マーラーはロットよりも後に交響曲を書いたのだが)について、色々と議論のあるところであろう。交響曲第一番「巨人」はもとより、マーラーの第五番までの交響曲は、ロットの曲から(よく言えば)インスパイアを受けた、(悪く言えば)勝手に拝借(パクリ)したのは明らかである。オマージュだったのかパクリだったのか、どちらでもよいことだが、マーラーはやろうと思えばいくらでも機会があったにもかかわらず、ロットの作品を世に出すことをしなかったことからは、後者であったと考えてもおかしくはない。一方で、ロットの要素を巧みに取り入れ、それを高次元に昇華させることができたのは、マーラーだからこそ、でもある。ロットが注目され始めたのは「マーラー的」であるためであり、もしマーラーが世に抵抗することなく埋没し、曲を残していなかったら、逆説的に言えば、マーラーがいなければロットが注目されることもなかった、と言うこともできるのではないか。マーラーではないが、師であるブルックナーも、ほぼ同時期(1881年)から交響曲第七番(E-dur)を書き始めていることから、調性的な意味で、なんらかロットの影響を受けたのかもしれない。
この曲は、言うまでもなく、時代的に革新的な音楽である。後述の通り、技法上の弱点を多数包含しながらも、それらを魅力にも変えてしまう独特の雰囲気がある。
以下、逐条的に縷々書いてみたい。
1.構成・全体像・特色
◆ 良くも悪くも「しっかりした構成美・様式美」とは無縁の曲である。ただし、第一楽章の、映画『エデンの東』のような第一主題は、全曲を通じたテーマであり、各楽章に登場する。つまり、いわゆる循環形式の楽曲になっている。
◆ 調は、E-dur(ホ長調)で書かれている。E-durは、「柔らかい」「繊細」「センチメンタル」「どことなく不安定」といった感覚の調であり、したがって、「がっしりした構造体」であるべき交響曲には不向きな調であると多くの作曲家が考えたためか、あまり交響曲では使われない調でもある。有名な作品はブルックナーの第七番・シューベルト旧七番くらいであろうか。ベートーヴェンもブラームスもシューマンもマーラーもショスタコーヴィッチもドヴォルザークもモーツァルトも、E-durの交響曲は書いていない。交響曲を百曲以上残したハイドンですら、E-durは3曲しかない(ちなみに、E-mollの交響曲も数は少ないが、こちらは、なぜか名曲が多い。ブラームス第四番・チャイコフスキー第五番・ドヴォルザーク「新世界」・ショスタコーヴィッチ第十番・ラフマニノフ第二番・マーラー第七番「夜の歌」など)。ただし、このようなセンチメンタルな調を用いて大きな建造物を作り出そうとするかのような試み、そのアンバランスさもこの曲の特色・魅力である。
◆ 4楽章から成るが、楽章を追うごとに演奏時間が長くなる珍しい曲である。普通は第一楽章が最も重要であり、演奏時間も長くなるところ、この曲は違う。第一楽章の演奏時間は約8分であるのに対し、第四楽章はそれだけで約20分を要する。なお、全曲で約60分に及ぶ大作である。
◆ 楽器編成は、いわゆる二管(ブラームスとほぼ同じ)が基本であり、決して「大編成」ではない。ただし、音量的・音楽的にはマーラーと同等以上のものが必要であり、結果的に、特に各管楽器パートの負荷が非常に高い。いずれにしても、楽器間のバランスは著しく悪い。ロットは自曲の実際の演奏を聴いたわけではなく、もし聴いたならば、ベートーヴェン等と同じように、いろいろと改訂をしたのではないかと想像する。
◆ 楽器の起用法も特徴的である。打楽器は、ティンパニーとトライアングルの2種のみながら、その活躍度合いは他に類を見ない。打楽器で言えば、第二楽章に「ここはティンパニストの腕が3本ないと叩けない」部分もある(演奏上は人数を増やして対応)。
◆ この曲には、ロットの師であるブルックナーの影響が少なからず認められる。
①弱→強、強→弱 を繰り返す(行っては諦め・戻っては行き)
②TpからHrへ受け継ぐ等、金管アンサンブル
③各楽章に出てくる「大伽藍」の様子
④コラール風旋律の多用
◆ ロットは、オルガニストであったことから、この曲にも下記のような「オルガニスト的要素」が見受けられる。
①フガートの多用=バッハの影響
②左足をほうふつとさせる低音の動き
◆ また、ワーグナーを信奉していただけに、下記のようなワーグナー的要素も見受けられる。
①半音の多用(特に金管で特徴的)
②その他、全体的にワーグナーの世界観に影響を受けている。
③加えて、本人が意図していたかはわからないものの、「ソナタ形式など古すぎる・意味がない」と否定したワーグナーの試みを結果的になぞることに。このスタイルが、当時の格式ばったウィーンの楽壇に拒否されることになる。
◆ 若さや経験の少なさによる弱点も多々ある。ただ、この「弱み」が魅力でもある。
◆ 相容れない様式(思想)である、ブラームス的なものとワーグナー・ブルックナー的なものを、不自然ではなく一曲の中に融合している。ロットは「それが自分の使命だ」「自分にしかできない」と思っていたのか。あるいは意図せずそうできたのか。
◆ 明るい将来を信じ、夢を見る若者。最後の音は、永遠に続く・続いてほしい幸福(希望)か。E-durであることで、繊細な響きであり、儚さを感じさせる。
2.作曲技法上の弱点
◆ 楽器の起用法:音域やパッセージ等、それぞれの楽器の持つ得手・不得手をあまり理解できていないため、演奏的に困難(無理)な部分が多々ある。総じて、楽器に対する知識不足。結果的に、弦・木管・金管・打のバランスの悪さが著しい。
◆ 頂点が多くありすぎる:師匠と同じような上下動を繰り返すものの、すべてが「全力」であり、また、それぞれ表情が異なり、一体どこがクライマックスなのか、つまり「言いたいことは何なのか」が分かりづらい。
◆ どこに向かおうとしているのか不透明なまま突進(精神病の芽?)→第二楽章・第三楽章・第四楽章では、その結果、悲劇的な大絶叫にまで至る(破綻・崩壊する)。
◆ 音型やリズム、和音、旋律等、特徴のある(意味深い)素材がそれなりに提示されながら、「食い散らかしている」感じ(=熟練の作曲家であれば、一つ一つの素材をもっと活用して、さらに説得力のある曲に仕上げるだろう)。結果的に、「とりとめのない」「統一感がない」「一貫したメッセージがない」音楽に聞こえる。
◆ 形式に伴う「箱」が不明確。上記とあわせ、結果的に「収まり」「箱ごとのバランス」が悪い(=突然始まり突然終わる・不必要に長い 等々)
例:第一楽章
①第二主題の調が終始不明瞭(意図的であったとしても何らかの解決は必要)
②展開部の入り口が不明瞭かつ第一主題と第二主題の扱いがアンバランス
③再現部での第二主題の扱い・調が不適切
④コーダの入りが不明(再現部とつながっている)
⑤etc…etc…
【結びに】
交響曲第一番を言葉で表現するとどうなるであろうか。思い浮かぶワードは「変容(美と不安・グロテスクの交差・同居・表裏一体・紙一重)」「強圧と突進(何かに駆り立てられて、何かに向かって突進していく音楽でありながら、その「何か」が不明。本人もよくわからなかったのではないか)」「支離滅裂(良くも悪くも一貫性があるようでない。ストーリー性も明確でない。ある方向に行ったかと思うと突然違う方向に全速力で向かう)」「世紀末の退廃的な雰囲気」「大げさな表現と艶っぽさ」といったところであろうか。
まるで、思いつくままに、思いのままに、頭と心に浮かぶ音楽(知っていたり・好きなもの)のすべてをキャンバスに描きなぐったようだ。したがって、昨年フラットフィルが演奏したシューマン2番のような「統一性」「メッセージ性」はない。あるいは、ブラームスのような構成感はなく、一聴した後の感想は、おそらく「結局、なにが言いたいの?」というものになるというのが大方ではなかろうか。いずれにしても、前述の通り、この曲には色々な意味での欠点が多々ある。しかしながら、弱冠20歳にしてここまでの作品(規模もさることながら、独自性であったり革新性であったり)を書いた作曲家は他にいただろうか?
誠に残念ながら、彼の残した作品は多くない。演奏可能な曲は25曲程度と言われる。そのようなことから考えれば、今後もロットの作品が長く演奏され続けることはないのかもしれない。しかしながら、だからといって彼の残した楽曲の価値が失われるわけではなく、むしろそうであるからこそ輝きを増していくと考えたい。夢と情熱に溢れた20歳の若者が、不器用ながらも真っすぐに自分の思いのたけを存分にぶつけた作品を、フラットフィルがどのように演奏するか、ぜひお楽しみいただきたい。
交響曲第一番の曲目解説&人物相関図はこちら。