第10回演奏会に寄せて

2022年5月
指揮 平 真実

フラットフィルハーモニー 第10回演奏会に寄せて

一昨年から始まったコロナ禍は、現在、多くの感染者を出しつつも、経済との両立を図る「withコロナ」の段階に入り、色々な活動が元の形に戻り始めています。演奏会もそのうちの一つでしょう。当初は、「芸術は不要不急のものか否か」といった議論もありましたが、現在は概ね通常通りの演奏会が開かれています。一方で、世界に目を転ずれば、ヨーロッパでは悲惨な出来事が継続し、戦後秩序が音を立てて崩れていく、そのような歴史の転換点の真只中にいることを、否応なく認識せざるを得ません。一日も早く平和と安寧の日々が訪れますよう、祈るばかりです。

さて、早いもので、フラットフィルの演奏会をはじめてもう10年が経ちます。昨年・一昨年も、色々な制限がありながらも演奏会を開くことができましたので、今回で第10回の演奏会ということになります。第1回から参加している団員とは、「皆平等に10歳、歳を取りましたね」と感慨深く話しています。

ここでは、今回のプログラムについて、どのような経緯で選曲したか、そして、我々がどのような演奏を目指すか等々について、ご紹介します。

今回は「記念すべき第10回」ということで、(曲順の問題ではなく)メイン・ハイライトは、田遠彩子さん(当団コンサートミストレス)のソロによるJ.ブラームスの《ヴァイオリン協奏曲ニ長調(以下、ブラコン)》としました。実は、田遠さんとは、第1回演奏会の時から「いつかはブラームスをやりましょう」と約束をしており、10年経ってようやくの実現です。ということで、ブラームスの協奏曲が最初に決まり、それを踏まえて他の演奏曲を考えることにしました。

ブラコンを中心に据えて、かつストーリー性(一貫性)を持たせたプログラムを構成するのは案外難しく、それなりに悩みました。最もシンプルかつ分かりやすい(安易?)のは「オールブラームス」という選択肢ですが、《ハイドン・ヴァリエーション》も《大学祝典序曲》も演奏済みの当団にとって、冒頭のプログラムに選べる曲は《悲劇的序曲》しか残っておらず、記念すべき節目の演奏会の冒頭に「悲劇的」というのも…と逡巡しました。また、当団として残っているブラームスの交響曲は《第4番》のみであり、まだ少し先にとっておきたいこと、等々から見送りました。

そのように考えを巡らせる中、思いついたのが「ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団(*1;文末の注参照)で初演された曲」を共通項に三曲揃えるのはどうだろうか、というものでした。ゲヴァントハウス管弦楽団は、ご存知の通り「王室とは関係がない、市民階級による初めてのオーケストラ」であり、いわゆる現代的な演奏会のプログラムの原点を作った団体であることも考えると、「今こうしてオーケストラ演奏が聴けるのはゲヴァントハウスにルーツがある」と言っても差し支えなく、この団体をコンセプトにすることは一定の意味があります。また、当然ながらプロのオーケストラは、ゲヴァントハウス管弦楽団という他団体を意識した演奏会などできるわけもないことから、我々が取り組む意義もあると考えました。加えて、メンデルスゾーンの《交響曲第5番 宗教改革》を演奏して以来当団が続けている「あまり知られていないが、こんな素敵な作曲家・作品もありますよ」ということをご来場の皆様にお伝えする、という伝統(!)も続けたいと考えました。

そこで選んだ一曲目は、「華やかであること」を重視して、R.ワーグナーの《ニュルンベルクのマイスタージンガー前奏曲》としました。前奏曲だけがゲヴァントハウスで初演されたという事実はあまり知られていませんが、ワーグナーは1868年のミュンヘンでの全編初演の前に、1862年に前奏曲を書き上げていました。そして、経済的に厳しい状況にあった彼を救う目的で、ライプツィヒの支援者達がゲヴァントハウスで開いた演奏会(1862年6月)の中で、ワーグナー自身の指揮によってこの前奏曲が初演されたのです。そういえば、ワーグナーその人もライプツィヒ生まれですね。

少々話しはかわりますが、ワーグナーは文筆活動も盛んに行った人で、大小合わせて100を超える論文を残しています。その中に『指揮について』という論文があり、《マイスタージンガー前奏曲》の解釈等について細かく書いています。論文中に、同時代の演奏家を批判する文脈で、“音楽を正しく演奏するために指揮者が解決する問題は多岐にわたるが、要は正しいテンポを指示するという一言に尽きるのである”と記しています。また、当時、ワーグナー本人が指揮する同曲を聴いた人が「わずか8分ほどで演奏した」と書き残した文が残っていること、一方で、他者が指揮する《歌劇リエンツィ》の演奏を、ワーグナーが「硬直的な演奏」と批判した事例があること等々から、ワーグナー自身の演奏スタイル・意図は「基本的に現代より速いテンポ感」「(当時の演奏家は一本調子の演奏が多い中で)曲中に相当にテンポを変えていた」と推測できます。それらを総合的に考慮・勘案して、今回の我々は「一般的な演奏よりも速いテンポ」で演奏する予定です。また、当時のオーケストラ(*2;文末の注参照)は、現代に比べて随分と小さな編成(人数)でしたので、「当時の最大編成」に近い我々の演奏を通じて、初演時の響き・溌剌とした音楽を感じていただけるのではないかと思います。

さて、「メイン」のブラコンです。

この曲は、L.v.ベートーヴェン・F.メンデルスゾーンと合わせ「3大ヴァイオリン協奏曲」と呼ばれていますが、そもそも、協奏曲が「ソリストの名人芸の発揮」になったのは、19世紀になってからのことです。それまでは、基本的に「少し目立つ楽器がある合奏曲」程度のもので、例えば、W.A.モーツァルトの協奏曲は「典型的な社交音楽」でした。それを根底から変えてしまったのがベートーヴェンで、「聴く人を喜ばせる」から「自己表現」へ、そのために独奏者に高い技量を求めるスタイルとなりました。また、19世紀後半からは、演奏会場の大型化への対応という面も出てきましたが、そうした中で書かれたのがブラコンです。どのような経緯で作曲されたかは、演奏会当日にお配りするプログラムに譲るとして、ブラコンは、交響曲第2番(1877)の翌年(=彼の創作活動が頂点に達していた時期)8月に着手し、翌1879年正月にゲヴァントハウスで初演されました(=着手から100日余りで初演したということ)。余談ですが、当初、ブラームスはライプツィヒでの初演を嫌がったそうです。それは、以前、ピアノ協奏曲第1番をゲヴァントハウスで初演した際、拍手したのが3人だけだったことがトラウマになっていたためだとか。ただし、ブラコンの初演は比較的好評で、以降、各地で演奏されています。

この曲は、第3楽章から書き始められたと言われています。第1・第2楽章は明らかにベートーヴェンの影響があるのですが、第3楽章は「舞曲」「ジプシー音楽」(コーダはトルコ行進曲的)であり、彼の音楽キャリアのスタート(1853年レメーニとのハンガリー演奏旅行)やJ.ヨアヒムへの敬意などの意図があったのでしょう。また、当初は「スケルツォ楽章」も持つ4楽章形式で構想されていましたが、最終的にはスケルツォは省かれ、このスケルツォは同時並行的に創作を始めていたピアノ協奏曲第2番に転用されました。つまり、両曲は、「ヴァイオリンの特性」「ピアノの音色」等々を前提として書かれた曲ではないということでもあります。したがって、交響曲的な重厚な響きが特徴であり、入念な主題操作とともに、創作活動のピークにいたブラームスの粋がつまった曲と言うことができます。加えて、室内楽的な要素も多分にあります。

評論家の吉田秀和氏は「ブラームスは表現がストレートではなく、間接的で絶えず何かに憧れているような情緒がまとわりついている」と表現しました。ソリストには「油ののった・ツヤツヤと磨きのかかった音(豊かな肉付きの音)」と同時に「内容的には省察的・内向的な音」が求められます。そして、オーケストラには単なる伴奏ではない役割が与えられ、ソリストとともに、「競奏」ではなく文字通り「協奏」あるいは「共創」しながら曲を作り上げます。そのような意味では、団員がソリストを務めるという今回の我々の演奏は、理想的な姿なのかもしれません。

三曲目については、①メインであるブラコンを超えるような(上書きしてしまうような)圧倒的な曲ではないこと、②オーケストラ編成に無理がないこと(拡張も縮小もしない)、③昨年までとの関係で重複感がないこと、④前記の通り「あまり知られていない曲であること」等を考慮し、N.ゲーゼの「交響曲第1番ハ短調」を選びました。ゲーゼはデンマークの作曲家です(我々が北欧の作曲家を取り上げるのは、第1回演奏会のE.グリーグ以来です)。1817年生まれですから、R.シューマンやF.メンデルスゾーンのほんの少し後輩の年代です。彼はコペンハーゲンの王室オーケストラのヴァイオリニストを務めながら、今回演奏する第1番交響曲を作曲(1842年)したものの、デンマークでは演奏する機会を得られませんでした。そこでライプツィヒのメンデルスゾーンに楽譜を送ったところ気に入られ、1843年にゲヴァントハウスで初演されました。同年から彼はライプツィヒに移り、1847年のメンデルスゾーン没後は、ゲヴァントハウスの指揮者のポストを受け継ぎます(ちなみに、メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲の初演を指揮したのはゲーゼです)。戦争の影響もあり、その在任期間は長くはありませんでした(約2年)が、デンマークに戻った後はコペンハーゲン音楽院院長として、グリーグやC.ニールセンに影響を与えるなど、大きな足跡を残しています。曲調としては、「いかにもメンデルスゾーンが気に入りそうな」繊細かつ優美なもので、無駄のない美しさが際立ちつつ、時に北欧的な荒々しいリズムが支配します。形式的には伝統的なスタイルに依拠しつつも、一方で、ダイナミックなティンパニの使い方などに、ニールセンに通ずるものも感じます。

以上が、選曲の経緯と簡単な曲紹介でした。ややこじつけで選んだ三曲ではありますが、結果的にフラットフィルらしい選曲でもあり、お楽しみいただけるものと確信しています。曲解説の詳細等は、演奏会当日のパンフレット等をご参照いただければと思います。

蛇足ですが、最後にアンコールについて。ゲヴァントハウスを語る上で、メンデルスゾーンを外すことはできません。アンコール一曲目には、メンデルスゾーンの曲(もちろんゲヴァントハウスで初演)をご用意しています。お楽しみに。

それでは、団員一同、7月16日に、ミューザ川崎で皆様のご来場をお待ちしております。

 

 

(*1) ゲヴァントハウス管弦楽団

前身となる団体が、メンバー16名により1743年に設立されました(最古の市民階級による自主運営オーケストラ=王宮にあるのではなくお金さえ払えば市民も聴ける)。ライプツィヒは商業で栄え、州都ドレスデンよりも人口の多い街でした。この団体が「ゲヴァントハウス」と名乗るのは、1781年にゲヴァントハウス(=織物会館)に演奏会場を移してからです。演奏会場と言っても、会館にある布職人工房の大きな屋根裏部屋(当初の客席数は500席。1842年の改修で1,000席に)でした。なお、ゲヴァントはGewebe(ゲヴェーベ・織物:Fablic(英))に由来します。

1835年にメンデルスゾーンが指揮者(カペルマイスター)に就任(1847年に死去するまで)してから黄金期を迎えました。多くの作曲家の作品が初演されたのも、これ以降です。さらに、メンデルスゾーンの時代に「前プロ・中プロ・メイン」といった現代にも通じる演奏会のスタイルが概ね確立しました。歴代コンサートマスターも錚々たる面々で、F.ダーヴィット(メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲を初演)、J.ヨアヒム(ブラコン初演)、フランスに帰化する前のC.ミュンシュ(在任1925~1932)などがいました。

1884年に「新ゲヴァントハウス(ホール)」が完成します。座席は1,500席、外観も立派な建物(ボストンのシンフォニーホールはこの新ゲヴァントハウスをモデルにしています)で、ここでA.ニキシュ、B.ワルター、W.フルトヴェングラーなどがカペルマイスターとして指揮台に立ちました。残念ながら、1944年に戦火で焼失し、ゲヴァントハウス管弦楽団は、その後は劇場などを間借りしながら活動します。1981年に現在のゲヴァントハウスホールが完成し、今に至ります。

なお、ライプツィヒにはライプツィヒ歌劇場という、サンカルロやハンブルクと並ぶ世界最古の歌劇場(1693年創立)がありますが、この歌劇場には座付きオケはなく、ゲヴァントハウス管弦楽団がピットに入ります。G.マーラーが楽長を務めた時期もある名門歌劇場で、戦後1960年に現在の建物に移りましたが、そのこけら落としで演奏されたのは《ニュルンベルクのマイスタージンガー》でした。

 

(*2) 当時のオーケストラ事情

現代では、「オーケストラ」というと70名から100名程度のイメージがありますが、当時はどうだったでしょうか。

J.ハイドン(1732~1809)が仕えたエステルハージ侯爵の宮廷管弦楽団は人数が流動的で、ハイドンは「その時々の編成」で曲を書いていました。ハイドンの交響曲が不規則な編成で書かれているのはこのためです。前記の通り、ゲヴァントハウスの前身はわずか16名でスタートしました。1781年に初めてゲヴァントハウスを名乗った演奏会でも、人数は32名、新ゲヴァントハウスが完成した1868年当時でも、団員は58名しかいませんでした。さらに、1881年にメンバーを拡充した際も、低弦は6名ずつでした(コントラバス8名・チェロ10名、という現代のフルサイズオーケストラに比べると少ない)。つまり、我々が考えるほど当時のオーケストラは大きな編成ではありませんでした。

地理的な面ではどうだったでしょうか。我々はドイツ・オーストリア(特にウィーン)がオーケストラの本場、と考えがちですが、当時は違いました。ワーグナーは、『指揮について』の中で、以下のように記しています。曰く “ドイツのオーケストラの場合、ヴィオラともなると・・・その大半が、お払い箱になったヴァイオリン奏者や、どこかで一度くらいヴァイオリンに触ったことがあるといった程度の落ち目の管楽器奏者で埋められているのが普通” “第一ヴァイオリンのトップにヴィオラのソロを兼任させて何とか凌いでいるオケもある” “ヴィオラパートで難しいパッセージを弾けたのは8人中一人だけ”等々散々な言いようです。。。一方で、ワーグナーは、1839年にパリのコンセルヴァトワールで聴いた演奏の素晴らしさに深い感銘を受けており、つまり当時は、フランスのオーケストラが質量ともに圧倒していたのです。そのような背景・環境があったからこそ、《第九》初演(1824年)のわずか6年後に、フランス人であるH.ベルリオーズが、誠に革新的な難曲《幻想交響曲》を作曲できたのかもしれません。そもそも、ウィーンですら、公共の演奏会場(座席数700でした)ができたのは1831年のことでしたし、ニューイヤーコンサートで有名なムジークフェライングロッサーザールが完成するのは、さらに後の1870年になってのことです。