フラットフィルハーモニー第11回演奏会に寄せて

平 真実

2020年から始まったコロナ禍は、この5月に第五類に分類されたことで一定の終息に至りました。もちろん、ウィルスが消えてなくなったわけではなく、引き続きの警戒は必要なのでしょうが、概ね以前の生活に戻りつつあるように思います。少なくとも朝晩の電車は混雑し、飲食店には賑わいが戻り、街は外国からの観光客で溢れています。
クラシックを含む音楽界も、ほぼ、元の姿に戻ったといえます。長く・息詰まるような不便な生活でしたが、まずは素直に「良かった」と思います。昨年の7月、我々は第10回演奏会を開きましたが、当時はまだまだコロナ感染のピーク期で、不安と不便の中での演奏会でした。今年の第11回は、久々に心置きなく演奏できること、とても楽しみにしています。

さて、今年も、フラットフィルらしいプログラムを組むことができたと思っています。取り上げるのは、独墺(ドイツ・オーストリア)のロマン派(特に後期)に属する三人の作曲家です。存在自体が音楽界の“劇薬”であったR.ワーグナー、そして彼の影響を色濃く受けたR.シュトラウスとフランツ・シュミット(シュミットという作曲家は他にフローラン・シュミットという人がいますので、はじめはフランツ、と書きました。以下ではF.に略します)の二人です。この三人の生年の順はさておき、今回演奏する三曲の作曲年順は、ワーグナー(1845)→シュミット(1899)→シュトラウス(1947)と、一言でロマン派作曲家が書いた作品と言っても100年以上の時間差があります。仮にワーグナーを一つの起点と考えた時に、今回の3曲は、その後の時間の経過(物理的な経過だけではなく社会や技法の変化を含む経過)と、一方で時間とは直接関係のない内面的な変化の有無という、複眼的な視座を与えてくれるように思います。いずれにしても、わずか三人の作品を通じて全てを理解することはできませんが、「古い時代だから古い」「最近の物は新しい」という直線的なものではない、それぞれに面白い立ち位置にある各曲を楽しんでいただければと思います。
以下、選曲した順に簡単に各曲に触れたいと思います。

三曲の内、はじめに決めたのは、R.シュトラウスの二重小協奏曲でした。「団員がソリストを務めて協奏曲を演奏する」ことは、当団は実に過去4回行っており、もはやプログラムの“定番”の域です。今回は、クラリネット首席の高井洋子さん・ファゴット首席の久住美香さんですが、以前より、久住さんにはソロをお願いしたいと考えてきた中で、今回引き受けてくれることになりました。また、その相棒としてまさに適役の高井さんも、久しぶりにソリストとして登場です。
団員がソリストを務めるのは、アンサンブル上のメリットが大きいと考えています。当然ながら、いつも共に演奏する仲間同士ですから、「気心の知れた調和」「阿吽の呼吸」が、無理なく生まれてきます。一方、ゲストソリストとの共演にみられる「良い意味での緊張感」が欠けるのではないか、という考えもあるかもしれません。しかしながら、それを差し引いても、私はメリットが上回ると考えています。仲間同士でも意図的に緊張感を生み出すことは可能ですが、仲間同士の一体感は、意図的に・簡単に生み出すことはできないからです。言うまでもなく、協奏曲のソロパートは、技術的にも音楽的にも簡単なものではなく、誰でもできるわけではありません。しかしながら、百戦錬磨のメンバーが揃っている当団では、全く問題はありません。
R.シュトラウス(1864~1949)は、『ツァラトゥストラはかく語り』をはじめとした大規模・大音量のオーケストラ曲のイメージが強い作曲家ですが、生涯にわたり、いわゆる「古典派」へ強い憧れを持っていました(モーツァルトへの熱い想いを表した言葉をたくさん残しています)し、現に、多くの小編成の曲を残しています。そんな彼が最晩年に作曲した(亡くなる2年前で、第二次世界大戦が終わった後ですから「現代」と言ってもよい年です)のが、この二重小協奏曲です。古典というよりも、むしろ、さらに古い時代のバロック時代に流行した合奏協奏曲を彷彿とさせる編成、一方で詩心に溢れた抒情的な旋律、彼独特の不思議な雰囲気とトリッキーな動き、等々が聴き手を楽しませてくれます。この曲は、構想段階では、童話を基にした標題音楽を想定して書かれた(最終的には純粋な器楽曲になりました)ということもあり、クラリネットとファゴットが会話をするような音楽は、ユーモアのある一種の劇のような雰囲気でもあります。
今回の演奏会では、『タンホイザー』序曲の大音量の後に演奏しますが、ソロ+弦楽器+ハープ、という誠に小編成のこの曲は、一服の清涼剤のような感じになるでしょう。
老作曲家が、激動の時代を生き抜いた先に見た景色は、どのようなものだったのでしょうか。そんな興味も抱かせる作品です。

次に選んだのは、F.シュミット(1874~1939)の交響曲第一番でした。星の数ほど、それも、綺羅星のごとく多くの大作曲家が生まれた後期ロマン派の中で、なぜF.シュミットを取り上げるのか。理由は三点です。第一に、数年前にH.ロットの交響曲を演奏しましたが、お陰様でその時の反響がよく、いわゆる“世紀末感”のある曲を選曲したかったこと、第二に、あまり知られていない作曲家の曲であること(ポピュラーではない曲を選ぶのも、当団の伝統でもあります)、第三に、調性(H.ロットを演奏した回と同様、“調の回帰”)、です。もちろん、その他にも演奏時間や楽器編成も考慮しました。
F.シュミットとは誰だ?という方も多いでしょうから、少し説明します。
F.シュミットは、1874年に現在のスロヴァキアに生まれました。その後一家でウィーンに移り、音楽家を志します。ウィーン楽友協会音楽院(現在のウィーン国立音楽大学)卒業後すぐにウィーン宮廷歌劇場のチェリストの職を得て本格的な活動をはじめますが、この交響曲は、そんな時期(1899年:25歳)に書かれました。作風は、ブルックナー的でありワーグナー的であり、ブラームス的でもあり、そう、H.ロットの交響曲(1874年作=シュミットが生まれた年ですね)にどことなく似ています。調も、ロットと同じく、交響曲には不向きと言われるホ長調。ただし、ロットと違い、楽曲構成はよりしっかりとしており、「きちんと」書かれています。第一楽章は序奏部を持つ分かりやすいソナタ形式(第二主題部は若干個性的ではあります)。第二楽章(緩徐楽章)と第三楽章(スケルツォ)は三部形式、第四楽章はコラール風主題を持つロンド形式と、まず、外形からして明確に「ザ・交響曲」です。各楽章のバランスも良く、全体で45分程の楽曲です。また、第四楽章のコラール部は第一楽章の主題を下敷きにしていますので、楽曲全体の統一感もあります(循環形式)。その上で、目まぐるしい転調やレントラー風旋律、世紀末的なけだるさも散りばめられ、聴き手を飽きさせません(その代わりに、演奏する側はかなり大変です)。なお、シュミットがロットの交響曲を知っていたかというと、知らなかったと思います。なぜならば、この当時、ロットの楽譜は楽友協会にお蔵入りになっていたはずだからです。
彼が生まれた1874年は、シェーンベルクが生まれた年でもあります。また、一歳違いにはラヴェルやラフマニノフがいます。交響曲第一番が書かれたのは1899年、つまりほぼ20世紀ですが、この時には、マーラーはすでに交響曲第四番に着手していました。そうしたことを考えると、いかにもシュミットの交響曲第一番の作風は「時代遅れ的」な感は否めません。一方で、彼のこうしたスタイルは、当時も「王道」と思われていたのでしょう、この作品は1901年にウィーン楽友協会から「ベートーヴェン賞」を授与され、1902年ウィーン楽友協会大ホールにおいて、彼自身の指揮によって初演されました。シュミットは、その後もウィーンの音楽界で重きをなし、音楽院の学長にまで上り詰めます。もちろん、作曲家というだけでなく、教育者としての才もあったからに他なりません。いずれにしても、日本ではあまり知られていないシュミットですが、当時のウィーン音楽界の重要人物として生涯を送りましたし、独墺では、現在も演奏会でよく取り上げられている作曲家です。
シュミットは4つの交響曲を残していますが、恐らく最後に書かれた第四番は、比較的演奏機会が多いと思います。この第四交響曲は1933年に書かれましたが、前年に娘を亡くし、その悲嘆の中で作曲されました。かなり難解な作品で、曲はソロトランペットの悲壮な音で始まり、第四楽章の最後もソロトランペットに回帰して静かに終わります。本日演奏する第一交響曲も、序奏部でソロトランペットが旋律を吹きますが、それはホ長調の朗らかなもの。明るい将来を疑わない若者の、嫌味のない美しさ。これが30数年を経て悲痛な音楽へ変わっていくことに、人生の苦楽と世情の大きな変化を感じずにはいられません。ちなみに、1933年は第二次世界大戦が始まる5年前で、世は混沌とし、不安に包まれた時期でした。
シュミットの4つの交響曲を俯瞰すると、誤解を恐れずに言えば「どっちつかず」という感想を持ちます。つまり「この時代にしては古風に過ぎ、伝統的なスタイルというには前衛に過ぎる」という意味です。しかしながら、第一番については、そうした観点は別として、完成度が高い作品であり、構成や旋律を含め誠に馴染みやすい音楽であることは間違いありません。

最後に、R.ワーグナー(1813~1883)の歌劇『タンホイザー』序曲についてです。かなりポピュラーな曲ですので、簡単に触れるにとどめます。
作曲年は1845年、ワーグナー32歳の時の作品です。多くの方がご存知の通り、後にワーグナーは「楽劇(Musikdrama)」というジャンルを確立しますが、『タンホイザー』は、まだ「歌劇(Oper)」という位置づけです。一方で、本編の前に演奏する曲を「序曲(Overture)」としたのは『タンホイザー』が最後で、この後に作曲した歌劇『ローエングリン』からは「前奏曲(Vorspiel)」と書かれるようになりました。また、音楽と劇の一体性・動機の活用等々、後の「楽劇」の芽ともいうべき要素がたくさん含まれており、「楽劇」へ向けた重要なステップに位置付けられる作品と言うことができます。加えて、『タンホイザー』でも多用される「半音階」は、ワーグナー作品の一つの特徴であり、後年、楽劇『トリスタンとイゾルデ』で究極の形に至ります。
『タンホイザー』序曲はシンプルなA-B-A‘の三部形式で、Aでは巡礼の音楽(場面)を、Bでは情欲におぼれる魔の世界を、A’では巡礼の音楽に戻り神を讃えつつ壮大に終わります。冒頭の「巡礼の動機」と呼ばれる三拍子の有名な旋律はホ長調で、クラリネット・ファゴット・ホルンの三種の楽器で演奏します。ちなみに、この動機は、本編では変ホ長調(♭三つ)です。この「三」という数字は、西洋音楽では、いわゆる「三位一体」という宗教的な意味で重要です。曲の細かい解説を書く紙幅はありませんので、二点ほど投げかけだけを。一つ目は、AとA‘の「巡礼の動機」に出るホルンとトロンボーンの関係性に注目すると、そこには「人間的なもの」と「神の世界」を感じることができます。二つ目として、「情熱の動機」と呼ばれる、弦楽器が三連音(あるいはその断片)で演奏する細かい音符について、これはBの後半からA’を通じても流れます。以上の二点について、色々と想像しながら聴いてみると面白いかもしれません。いずれにしても、「動機」や「楽器特性による分担」等々が有機的につながることで、ワーグナーの作品は、劇を音としても表現しています。
彼が作った「楽劇」というジャンルは、その後、R.シュトラウスに受け継がれ、『ばらの騎士』や『エレクトラ』等多くの名曲につながります。かなり話しは変わりますが、前述のF.シュミットがウィーン宮廷歌劇場チェリストとして初めて演奏した(1896年)のは、この歌劇『タンホイザー』(全曲)でした。

上記に「調の回帰」と書きましたが、これは、最初の『タンホイザー』序曲はホ長調、最後に演奏するF.シュミットの交響曲もホ長調、このように、一つの演奏会で調が回帰することという意味です。ホ長調は、上品ながら少し儚さを感じる美しい調、と言われますが、ハ長調やニ長調のように「暑苦しい」「押しつけがましい」感がない調でもありますので、夏の盛りの時期には丁度いいかもしれません。
一言で100年と言っても、1845年から1947年にかけては、日本では江戸時代から昭和に至っていますし、もっと言えば、この100年は、人類史上において最も大きな変化を経験した時代でした。この間に電気が発明され、移動手段は馬車から飛行機になりました。それほどの変化があったのです。19世紀後半は、産業革命とフランス革命、その後の市民革命を経た激動の後、欧州は途方もない経済発展を見た時代で、機械化が一気に進んだ時代でしたし、ある意味でその帰結としての第一次・第二次世界大戦が起こりました。とりわけ1914年からの第一次世界大戦は、文字通り人類で初めての「総力戦」であり、欧州においてはそのインパクトは計り知れず、C.ニールセンやF.シュミットはもちろん、多くの作曲家の作風は、その前後で一変します。そのような時代的なことも想像しながら、今回の演奏会をお楽しみいただければと思います。

(2023年5月 / 当団常任指揮者)

第10回演奏会に寄せて

2022年5月
指揮 平 真実

フラットフィルハーモニー 第10回演奏会に寄せて

一昨年から始まったコロナ禍は、現在、多くの感染者を出しつつも、経済との両立を図る「withコロナ」の段階に入り、色々な活動が元の形に戻り始めています。演奏会もそのうちの一つでしょう。当初は、「芸術は不要不急のものか否か」といった議論もありましたが、現在は概ね通常通りの演奏会が開かれています。一方で、世界に目を転ずれば、ヨーロッパでは悲惨な出来事が継続し、戦後秩序が音を立てて崩れていく、そのような歴史の転換点の真只中にいることを、否応なく認識せざるを得ません。一日も早く平和と安寧の日々が訪れますよう、祈るばかりです。

さて、早いもので、フラットフィルの演奏会をはじめてもう10年が経ちます。昨年・一昨年も、色々な制限がありながらも演奏会を開くことができましたので、今回で第10回の演奏会ということになります。第1回から参加している団員とは、「皆平等に10歳、歳を取りましたね」と感慨深く話しています。

ここでは、今回のプログラムについて、どのような経緯で選曲したか、そして、我々がどのような演奏を目指すか等々について、ご紹介します。

今回は「記念すべき第10回」ということで、(曲順の問題ではなく)メイン・ハイライトは、田遠彩子さん(当団コンサートミストレス)のソロによるJ.ブラームスの《ヴァイオリン協奏曲ニ長調(以下、ブラコン)》としました。実は、田遠さんとは、第1回演奏会の時から「いつかはブラームスをやりましょう」と約束をしており、10年経ってようやくの実現です。ということで、ブラームスの協奏曲が最初に決まり、それを踏まえて他の演奏曲を考えることにしました。

ブラコンを中心に据えて、かつストーリー性(一貫性)を持たせたプログラムを構成するのは案外難しく、それなりに悩みました。最もシンプルかつ分かりやすい(安易?)のは「オールブラームス」という選択肢ですが、《ハイドン・ヴァリエーション》も《大学祝典序曲》も演奏済みの当団にとって、冒頭のプログラムに選べる曲は《悲劇的序曲》しか残っておらず、記念すべき節目の演奏会の冒頭に「悲劇的」というのも…と逡巡しました。また、当団として残っているブラームスの交響曲は《第4番》のみであり、まだ少し先にとっておきたいこと、等々から見送りました。

そのように考えを巡らせる中、思いついたのが「ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団(*1;文末の注参照)で初演された曲」を共通項に三曲揃えるのはどうだろうか、というものでした。ゲヴァントハウス管弦楽団は、ご存知の通り「王室とは関係がない、市民階級による初めてのオーケストラ」であり、いわゆる現代的な演奏会のプログラムの原点を作った団体であることも考えると、「今こうしてオーケストラ演奏が聴けるのはゲヴァントハウスにルーツがある」と言っても差し支えなく、この団体をコンセプトにすることは一定の意味があります。また、当然ながらプロのオーケストラは、ゲヴァントハウス管弦楽団という他団体を意識した演奏会などできるわけもないことから、我々が取り組む意義もあると考えました。加えて、メンデルスゾーンの《交響曲第5番 宗教改革》を演奏して以来当団が続けている「あまり知られていないが、こんな素敵な作曲家・作品もありますよ」ということをご来場の皆様にお伝えする、という伝統(!)も続けたいと考えました。

そこで選んだ一曲目は、「華やかであること」を重視して、R.ワーグナーの《ニュルンベルクのマイスタージンガー前奏曲》としました。前奏曲だけがゲヴァントハウスで初演されたという事実はあまり知られていませんが、ワーグナーは1868年のミュンヘンでの全編初演の前に、1862年に前奏曲を書き上げていました。そして、経済的に厳しい状況にあった彼を救う目的で、ライプツィヒの支援者達がゲヴァントハウスで開いた演奏会(1862年6月)の中で、ワーグナー自身の指揮によってこの前奏曲が初演されたのです。そういえば、ワーグナーその人もライプツィヒ生まれですね。

少々話しはかわりますが、ワーグナーは文筆活動も盛んに行った人で、大小合わせて100を超える論文を残しています。その中に『指揮について』という論文があり、《マイスタージンガー前奏曲》の解釈等について細かく書いています。論文中に、同時代の演奏家を批判する文脈で、“音楽を正しく演奏するために指揮者が解決する問題は多岐にわたるが、要は正しいテンポを指示するという一言に尽きるのである”と記しています。また、当時、ワーグナー本人が指揮する同曲を聴いた人が「わずか8分ほどで演奏した」と書き残した文が残っていること、一方で、他者が指揮する《歌劇リエンツィ》の演奏を、ワーグナーが「硬直的な演奏」と批判した事例があること等々から、ワーグナー自身の演奏スタイル・意図は「基本的に現代より速いテンポ感」「(当時の演奏家は一本調子の演奏が多い中で)曲中に相当にテンポを変えていた」と推測できます。それらを総合的に考慮・勘案して、今回の我々は「一般的な演奏よりも速いテンポ」で演奏する予定です。また、当時のオーケストラ(*2;文末の注参照)は、現代に比べて随分と小さな編成(人数)でしたので、「当時の最大編成」に近い我々の演奏を通じて、初演時の響き・溌剌とした音楽を感じていただけるのではないかと思います。

さて、「メイン」のブラコンです。

この曲は、L.v.ベートーヴェン・F.メンデルスゾーンと合わせ「3大ヴァイオリン協奏曲」と呼ばれていますが、そもそも、協奏曲が「ソリストの名人芸の発揮」になったのは、19世紀になってからのことです。それまでは、基本的に「少し目立つ楽器がある合奏曲」程度のもので、例えば、W.A.モーツァルトの協奏曲は「典型的な社交音楽」でした。それを根底から変えてしまったのがベートーヴェンで、「聴く人を喜ばせる」から「自己表現」へ、そのために独奏者に高い技量を求めるスタイルとなりました。また、19世紀後半からは、演奏会場の大型化への対応という面も出てきましたが、そうした中で書かれたのがブラコンです。どのような経緯で作曲されたかは、演奏会当日にお配りするプログラムに譲るとして、ブラコンは、交響曲第2番(1877)の翌年(=彼の創作活動が頂点に達していた時期)8月に着手し、翌1879年正月にゲヴァントハウスで初演されました(=着手から100日余りで初演したということ)。余談ですが、当初、ブラームスはライプツィヒでの初演を嫌がったそうです。それは、以前、ピアノ協奏曲第1番をゲヴァントハウスで初演した際、拍手したのが3人だけだったことがトラウマになっていたためだとか。ただし、ブラコンの初演は比較的好評で、以降、各地で演奏されています。

この曲は、第3楽章から書き始められたと言われています。第1・第2楽章は明らかにベートーヴェンの影響があるのですが、第3楽章は「舞曲」「ジプシー音楽」(コーダはトルコ行進曲的)であり、彼の音楽キャリアのスタート(1853年レメーニとのハンガリー演奏旅行)やJ.ヨアヒムへの敬意などの意図があったのでしょう。また、当初は「スケルツォ楽章」も持つ4楽章形式で構想されていましたが、最終的にはスケルツォは省かれ、このスケルツォは同時並行的に創作を始めていたピアノ協奏曲第2番に転用されました。つまり、両曲は、「ヴァイオリンの特性」「ピアノの音色」等々を前提として書かれた曲ではないということでもあります。したがって、交響曲的な重厚な響きが特徴であり、入念な主題操作とともに、創作活動のピークにいたブラームスの粋がつまった曲と言うことができます。加えて、室内楽的な要素も多分にあります。

評論家の吉田秀和氏は「ブラームスは表現がストレートではなく、間接的で絶えず何かに憧れているような情緒がまとわりついている」と表現しました。ソリストには「油ののった・ツヤツヤと磨きのかかった音(豊かな肉付きの音)」と同時に「内容的には省察的・内向的な音」が求められます。そして、オーケストラには単なる伴奏ではない役割が与えられ、ソリストとともに、「競奏」ではなく文字通り「協奏」あるいは「共創」しながら曲を作り上げます。そのような意味では、団員がソリストを務めるという今回の我々の演奏は、理想的な姿なのかもしれません。

三曲目については、①メインであるブラコンを超えるような(上書きしてしまうような)圧倒的な曲ではないこと、②オーケストラ編成に無理がないこと(拡張も縮小もしない)、③昨年までとの関係で重複感がないこと、④前記の通り「あまり知られていない曲であること」等を考慮し、N.ゲーゼの「交響曲第1番ハ短調」を選びました。ゲーゼはデンマークの作曲家です(我々が北欧の作曲家を取り上げるのは、第1回演奏会のE.グリーグ以来です)。1817年生まれですから、R.シューマンやF.メンデルスゾーンのほんの少し後輩の年代です。彼はコペンハーゲンの王室オーケストラのヴァイオリニストを務めながら、今回演奏する第1番交響曲を作曲(1842年)したものの、デンマークでは演奏する機会を得られませんでした。そこでライプツィヒのメンデルスゾーンに楽譜を送ったところ気に入られ、1843年にゲヴァントハウスで初演されました。同年から彼はライプツィヒに移り、1847年のメンデルスゾーン没後は、ゲヴァントハウスの指揮者のポストを受け継ぎます(ちなみに、メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲の初演を指揮したのはゲーゼです)。戦争の影響もあり、その在任期間は長くはありませんでした(約2年)が、デンマークに戻った後はコペンハーゲン音楽院院長として、グリーグやC.ニールセンに影響を与えるなど、大きな足跡を残しています。曲調としては、「いかにもメンデルスゾーンが気に入りそうな」繊細かつ優美なもので、無駄のない美しさが際立ちつつ、時に北欧的な荒々しいリズムが支配します。形式的には伝統的なスタイルに依拠しつつも、一方で、ダイナミックなティンパニの使い方などに、ニールセンに通ずるものも感じます。

以上が、選曲の経緯と簡単な曲紹介でした。ややこじつけで選んだ三曲ではありますが、結果的にフラットフィルらしい選曲でもあり、お楽しみいただけるものと確信しています。曲解説の詳細等は、演奏会当日のパンフレット等をご参照いただければと思います。

蛇足ですが、最後にアンコールについて。ゲヴァントハウスを語る上で、メンデルスゾーンを外すことはできません。アンコール一曲目には、メンデルスゾーンの曲(もちろんゲヴァントハウスで初演)をご用意しています。お楽しみに。

それでは、団員一同、7月16日に、ミューザ川崎で皆様のご来場をお待ちしております。

 

 

(*1) ゲヴァントハウス管弦楽団

前身となる団体が、メンバー16名により1743年に設立されました(最古の市民階級による自主運営オーケストラ=王宮にあるのではなくお金さえ払えば市民も聴ける)。ライプツィヒは商業で栄え、州都ドレスデンよりも人口の多い街でした。この団体が「ゲヴァントハウス」と名乗るのは、1781年にゲヴァントハウス(=織物会館)に演奏会場を移してからです。演奏会場と言っても、会館にある布職人工房の大きな屋根裏部屋(当初の客席数は500席。1842年の改修で1,000席に)でした。なお、ゲヴァントはGewebe(ゲヴェーベ・織物:Fablic(英))に由来します。

1835年にメンデルスゾーンが指揮者(カペルマイスター)に就任(1847年に死去するまで)してから黄金期を迎えました。多くの作曲家の作品が初演されたのも、これ以降です。さらに、メンデルスゾーンの時代に「前プロ・中プロ・メイン」といった現代にも通じる演奏会のスタイルが概ね確立しました。歴代コンサートマスターも錚々たる面々で、F.ダーヴィット(メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲を初演)、J.ヨアヒム(ブラコン初演)、フランスに帰化する前のC.ミュンシュ(在任1925~1932)などがいました。

1884年に「新ゲヴァントハウス(ホール)」が完成します。座席は1,500席、外観も立派な建物(ボストンのシンフォニーホールはこの新ゲヴァントハウスをモデルにしています)で、ここでA.ニキシュ、B.ワルター、W.フルトヴェングラーなどがカペルマイスターとして指揮台に立ちました。残念ながら、1944年に戦火で焼失し、ゲヴァントハウス管弦楽団は、その後は劇場などを間借りしながら活動します。1981年に現在のゲヴァントハウスホールが完成し、今に至ります。

なお、ライプツィヒにはライプツィヒ歌劇場という、サンカルロやハンブルクと並ぶ世界最古の歌劇場(1693年創立)がありますが、この歌劇場には座付きオケはなく、ゲヴァントハウス管弦楽団がピットに入ります。G.マーラーが楽長を務めた時期もある名門歌劇場で、戦後1960年に現在の建物に移りましたが、そのこけら落としで演奏されたのは《ニュルンベルクのマイスタージンガー》でした。

 

(*2) 当時のオーケストラ事情

現代では、「オーケストラ」というと70名から100名程度のイメージがありますが、当時はどうだったでしょうか。

J.ハイドン(1732~1809)が仕えたエステルハージ侯爵の宮廷管弦楽団は人数が流動的で、ハイドンは「その時々の編成」で曲を書いていました。ハイドンの交響曲が不規則な編成で書かれているのはこのためです。前記の通り、ゲヴァントハウスの前身はわずか16名でスタートしました。1781年に初めてゲヴァントハウスを名乗った演奏会でも、人数は32名、新ゲヴァントハウスが完成した1868年当時でも、団員は58名しかいませんでした。さらに、1881年にメンバーを拡充した際も、低弦は6名ずつでした(コントラバス8名・チェロ10名、という現代のフルサイズオーケストラに比べると少ない)。つまり、我々が考えるほど当時のオーケストラは大きな編成ではありませんでした。

地理的な面ではどうだったでしょうか。我々はドイツ・オーストリア(特にウィーン)がオーケストラの本場、と考えがちですが、当時は違いました。ワーグナーは、『指揮について』の中で、以下のように記しています。曰く “ドイツのオーケストラの場合、ヴィオラともなると・・・その大半が、お払い箱になったヴァイオリン奏者や、どこかで一度くらいヴァイオリンに触ったことがあるといった程度の落ち目の管楽器奏者で埋められているのが普通” “第一ヴァイオリンのトップにヴィオラのソロを兼任させて何とか凌いでいるオケもある” “ヴィオラパートで難しいパッセージを弾けたのは8人中一人だけ”等々散々な言いようです。。。一方で、ワーグナーは、1839年にパリのコンセルヴァトワールで聴いた演奏の素晴らしさに深い感銘を受けており、つまり当時は、フランスのオーケストラが質量ともに圧倒していたのです。そのような背景・環境があったからこそ、《第九》初演(1824年)のわずか6年後に、フランス人であるH.ベルリオーズが、誠に革新的な難曲《幻想交響曲》を作曲できたのかもしれません。そもそも、ウィーンですら、公共の演奏会場(座席数700でした)ができたのは1831年のことでしたし、ニューイヤーコンサートで有名なムジークフェライングロッサーザールが完成するのは、さらに後の1870年になってのことです。

第7回演奏会に寄せて(ハンス・ロットを中心に)

平 真実(指揮者)

 今回の三曲のプログラムは、それぞれに関連がある。一曲目の「ジークフリート牧歌」と三曲目のH.ロット「交響曲第一番」は同じE-dur(ホ長調)。ロットはR.ワーグナーの影響を強く受け(第一回バイロイト音楽祭を訪れてもいる)、ワーグナーと二曲目に演奏するF.リストは友人であり義理の親子。またロットの「交響曲第一番」とリストの「ピアノ協奏曲」は、循環形式(一つの主題が全曲を統一する)という共通点がある。つまり、三曲ともそれぞれに何らかの関連を持つプログラムになっている。また、演奏会自体が「ジークフリート牧歌」のE-durの小さい音から始まり、「交響曲第一番」のE-durの穏やかな和音で終わる。調の循環でもあり、演奏会の最後は、優しい気持ちと儚い夢が天上に消えていくイメージになろうか。
フラットフィルハーモニーの第7回演奏会は、誠に意欲的なプログラムである。意欲的というよりも、かなり挑戦的かつ冒険的でもある。いずれにしても、お客様には、今までのフラットフィルのイメージとは違う、大音量かつ華麗で新鮮な音楽を聴いていただくことになるであろう。

R.ワーグナーとF.リストについては、それぞれあまりにも有名な作曲家であり、いまさら何かを書く必要もないであろうから、ここではH.ロットについて書いてみようと思う。

【H.ロットとの出会い】
私が彼の作品と初めて出会ったのは、6~7年前に、とあるオーケストラから「H.ロットの交響曲第一番を指揮してくれないか」という話しをいただき、送られてきた楽譜を読んだ時であった。その当時はこの作曲家の作品はおろか、名前すら知らなかったが、「この曲は面白い」と強い印象を受けた。当然ながら「マーラーに似ているところがたくさんある」「ブルックナーにも似ている」「ワーグナー的でもある」「ブラームス的要素もある」ということが最初の所感であったが、ロットがマーラーよりもかなり前にこの作品を書いたことを知り、驚愕した。
結果的にこのオーケストラと共演することはスケジュールの関係で叶わなかったが、それ以来、ロットの交響曲を演奏する機会が訪れるのを、私は心のどこかで待っていたのだと思う。

ロットの生涯等については、演奏会会場での配布プログラム、あるいはホームページ記載の別項を参照いただきたいが、ロットは、いわば、生まれながらにして不幸な生涯であった。私生児として生まれ、両親とは10代で死別しており、経済的にも苦しい環境であった。ただし、その「不幸感」は、音楽の表面からはっきり見ることはできない。確実に才能には恵まれていた。しかし、その才能(特に先見性や革新性や特異性)の発芽による世の中からの反感の目を受け止める精神的タフさがなかった。これが残念であり、結果的に精神を病み、自死に近い形でわずか26年の生涯を閉じるという悲劇につながる。
ロットは、交響曲第一番(一楽章のみ)を音楽院の卒業コンクールに出品したものの、多くの審査員から嘲笑を受け、ロットの作品のみが卒業コンクールで落選した。また、その後、全曲を通じてブラームスから酷評された。こうした事柄は、今の観点では「なぜだ?」「ブラームスは見る目がないのでは?」ということになろうが、ある意味当然でもある。例えばこの曲は、(少なくとも当時のウィーンで)重要視されていた厳格なソナタ形式から明らかに逸脱しており、当時の審査員の感覚からは、調性も含めて「交響曲としては不適格」と判断されてもなんらおかしくない。いや、むしろ当然の反応であったろう。同じコンクールに出品し当選したマーラーの室内楽作品は、現在は残っていない。それは、「大した作品ではないから残っていない」という側面はもちろんあろうが、むしろ「当選するために出品した作品」であって、マーラーが「思い描いた世界を渾身の力・才能のすべてをぶつけて書いた」作品ではなかったからでもあろう。言うなれば、ロットは、「作品を出す場」「聴かせる相手」を間違えたのであり、単なる世間知らずという言い方もできる。これは、同曲が、別の観点から審査される奨学金の審査には通ったことからもわかる。

【交響曲第一番ホ長調について】
今年(2019年)は、この曲が英国の音楽学者に再発見されてちょうど30年になる。また、作曲されてほぼ140年(作曲期間:1878~1880)でもある。ロットが弱冠20歳の時の作品(2楽章以降は、音楽院での落選が決まって以降に書かれた)で、この当時は、ブルックナーも交響曲第六番を書いたばかり(出版は第三番まで)。また、マーラーの交響曲第一番は、この10年後に書かれた。
マーラーとの近似性(というよりも、マーラーはロットよりも後に交響曲を書いたのだが)について、色々と議論のあるところであろう。交響曲第一番「巨人」はもとより、マーラーの第五番までの交響曲は、ロットの曲から(よく言えば)インスパイアを受けた、(悪く言えば)勝手に拝借(パクリ)したのは明らかである。オマージュだったのかパクリだったのか、どちらでもよいことだが、マーラーはやろうと思えばいくらでも機会があったにもかかわらず、ロットの作品を世に出すことをしなかったことからは、後者であったと考えてもおかしくはない。一方で、ロットの要素を巧みに取り入れ、それを高次元に昇華させることができたのは、マーラーだからこそ、でもある。ロットが注目され始めたのは「マーラー的」であるためであり、もしマーラーが世に抵抗することなく埋没し、曲を残していなかったら、逆説的に言えば、マーラーがいなければロットが注目されることもなかった、と言うこともできるのではないか。マーラーではないが、師であるブルックナーも、ほぼ同時期(1881年)から交響曲第七番(E-dur)を書き始めていることから、調性的な意味で、なんらかロットの影響を受けたのかもしれない。

この曲は、言うまでもなく、時代的に革新的な音楽である。後述の通り、技法上の弱点を多数包含しながらも、それらを魅力にも変えてしまう独特の雰囲気がある。

以下、逐条的に縷々書いてみたい。

1.構成・全体像・特色
◆ 良くも悪くも「しっかりした構成美・様式美」とは無縁の曲である。ただし、第一楽章の、映画『エデンの東』のような第一主題は、全曲を通じたテーマであり、各楽章に登場する。つまり、いわゆる循環形式の楽曲になっている。
◆ 調は、E-dur(ホ長調)で書かれている。E-durは、「柔らかい」「繊細」「センチメンタル」「どことなく不安定」といった感覚の調であり、したがって、「がっしりした構造体」であるべき交響曲には不向きな調であると多くの作曲家が考えたためか、あまり交響曲では使われない調でもある。有名な作品はブルックナーの第七番・シューベルト旧七番くらいであろうか。ベートーヴェンもブラームスもシューマンもマーラーもショスタコーヴィッチもドヴォルザークもモーツァルトも、E-durの交響曲は書いていない。交響曲を百曲以上残したハイドンですら、E-durは3曲しかない(ちなみに、E-mollの交響曲も数は少ないが、こちらは、なぜか名曲が多い。ブラームス第四番・チャイコフスキー第五番・ドヴォルザーク「新世界」・ショスタコーヴィッチ第十番・ラフマニノフ第二番・マーラー第七番「夜の歌」など)。ただし、このようなセンチメンタルな調を用いて大きな建造物を作り出そうとするかのような試み、そのアンバランスさもこの曲の特色・魅力である。
◆ 4楽章から成るが、楽章を追うごとに演奏時間が長くなる珍しい曲である。普通は第一楽章が最も重要であり、演奏時間も長くなるところ、この曲は違う。第一楽章の演奏時間は約8分であるのに対し、第四楽章はそれだけで約20分を要する。なお、全曲で約60分に及ぶ大作である。
◆ 楽器編成は、いわゆる二管(ブラームスとほぼ同じ)が基本であり、決して「大編成」ではない。ただし、音量的・音楽的にはマーラーと同等以上のものが必要であり、結果的に、特に各管楽器パートの負荷が非常に高い。いずれにしても、楽器間のバランスは著しく悪い。ロットは自曲の実際の演奏を聴いたわけではなく、もし聴いたならば、ベートーヴェン等と同じように、いろいろと改訂をしたのではないかと想像する。
◆ 楽器の起用法も特徴的である。打楽器は、ティンパニーとトライアングルの2種のみながら、その活躍度合いは他に類を見ない。打楽器で言えば、第二楽章に「ここはティンパニストの腕が3本ないと叩けない」部分もある(演奏上は人数を増やして対応)。
◆ この曲には、ロットの師であるブルックナーの影響が少なからず認められる。
①弱→強、強→弱 を繰り返す(行っては諦め・戻っては行き)
②TpからHrへ受け継ぐ等、金管アンサンブル
③各楽章に出てくる「大伽藍」の様子
④コラール風旋律の多用
◆ ロットは、オルガニストであったことから、この曲にも下記のような「オルガニスト的要素」が見受けられる。
①フガートの多用=バッハの影響
②左足をほうふつとさせる低音の動き
◆ また、ワーグナーを信奉していただけに、下記のようなワーグナー的要素も見受けられる。
①半音の多用(特に金管で特徴的)
②その他、全体的にワーグナーの世界観に影響を受けている。
③加えて、本人が意図していたかはわからないものの、「ソナタ形式など古すぎる・意味がない」と否定したワーグナーの試みを結果的になぞることに。このスタイルが、当時の格式ばったウィーンの楽壇に拒否されることになる。
◆ 若さや経験の少なさによる弱点も多々ある。ただ、この「弱み」が魅力でもある。
◆ 相容れない様式(思想)である、ブラームス的なものとワーグナー・ブルックナー的なものを、不自然ではなく一曲の中に融合している。ロットは「それが自分の使命だ」「自分にしかできない」と思っていたのか。あるいは意図せずそうできたのか。
◆ 明るい将来を信じ、夢を見る若者。最後の音は、永遠に続く・続いてほしい幸福(希望)か。E-durであることで、繊細な響きであり、儚さを感じさせる。

2.作曲技法上の弱点
◆ 楽器の起用法:音域やパッセージ等、それぞれの楽器の持つ得手・不得手をあまり理解できていないため、演奏的に困難(無理)な部分が多々ある。総じて、楽器に対する知識不足。結果的に、弦・木管・金管・打のバランスの悪さが著しい。
◆ 頂点が多くありすぎる:師匠と同じような上下動を繰り返すものの、すべてが「全力」であり、また、それぞれ表情が異なり、一体どこがクライマックスなのか、つまり「言いたいことは何なのか」が分かりづらい。
◆ どこに向かおうとしているのか不透明なまま突進(精神病の芽?)→第二楽章・第三楽章・第四楽章では、その結果、悲劇的な大絶叫にまで至る(破綻・崩壊する)。
◆ 音型やリズム、和音、旋律等、特徴のある(意味深い)素材がそれなりに提示されながら、「食い散らかしている」感じ(=熟練の作曲家であれば、一つ一つの素材をもっと活用して、さらに説得力のある曲に仕上げるだろう)。結果的に、「とりとめのない」「統一感がない」「一貫したメッセージがない」音楽に聞こえる。
◆ 形式に伴う「箱」が不明確。上記とあわせ、結果的に「収まり」「箱ごとのバランス」が悪い(=突然始まり突然終わる・不必要に長い 等々)
例:第一楽章
①第二主題の調が終始不明瞭(意図的であったとしても何らかの解決は必要)
②展開部の入り口が不明瞭かつ第一主題と第二主題の扱いがアンバランス
③再現部での第二主題の扱い・調が不適切
④コーダの入りが不明(再現部とつながっている)
⑤etc…etc…

【結びに】
交響曲第一番を言葉で表現するとどうなるであろうか。思い浮かぶワードは「変容(美と不安・グロテスクの交差・同居・表裏一体・紙一重)」「強圧と突進(何かに駆り立てられて、何かに向かって突進していく音楽でありながら、その「何か」が不明。本人もよくわからなかったのではないか)」「支離滅裂(良くも悪くも一貫性があるようでない。ストーリー性も明確でない。ある方向に行ったかと思うと突然違う方向に全速力で向かう)」「世紀末の退廃的な雰囲気」「大げさな表現と艶っぽさ」といったところであろうか。
まるで、思いつくままに、思いのままに、頭と心に浮かぶ音楽(知っていたり・好きなもの)のすべてをキャンバスに描きなぐったようだ。したがって、昨年フラットフィルが演奏したシューマン2番のような「統一性」「メッセージ性」はない。あるいは、ブラームスのような構成感はなく、一聴した後の感想は、おそらく「結局、なにが言いたいの?」というものになるというのが大方ではなかろうか。いずれにしても、前述の通り、この曲には色々な意味での欠点が多々ある。しかしながら、弱冠20歳にしてここまでの作品(規模もさることながら、独自性であったり革新性であったり)を書いた作曲家は他にいただろうか?
誠に残念ながら、彼の残した作品は多くない。演奏可能な曲は25曲程度と言われる。そのようなことから考えれば、今後もロットの作品が長く演奏され続けることはないのかもしれない。しかしながら、だからといって彼の残した楽曲の価値が失われるわけではなく、むしろそうであるからこそ輝きを増していくと考えたい。夢と情熱に溢れた20歳の若者が、不器用ながらも真っすぐに自分の思いのたけを存分にぶつけた作品を、フラットフィルがどのように演奏するか、ぜひお楽しみいただきたい。

交響曲第一番の曲目解説&人物相関図はこちら。

曲目解説!(第7回)牧子画伯挿絵入り

ジークフリート牧歌 Op.103
R.ワーグナー

アマオケがワーグナーを演奏する機会はさほど多くない。彼の作品の殆どは大規模な歌劇や楽劇だし、その序曲、前奏曲間奏曲にしても、難易度が高く編成も曲のスケールも大きいため、なかなかプログラムに取り入れにくいのだ。その点この「ジークフリート牧歌」は、私的な作品で、こじんまりとしており、小編成で書かれ、何よりも家庭的な愛と喜びにあふれる音楽であるため、アマオケには極めて愛される作品となっている。この曲は1870年に、ようやく正式な妻となったコジマの誕生日のために作曲され、12月25日の朝、スイス、ルツェルンのトリープシェンの自宅において、いわゆるサプライズとして演奏された。ワーグナーの弟子で当時23歳だった後の大指揮者ハンス・リヒター選抜によるチューリッヒの管弦楽団の15人のメンバーは、コジマの寝室へと続く曲がり階段や踊り場に陣取り、最上段のワーグナーの指揮により静かに演奏を開始した。勿論サプライズは大成功だった。
「ジークフリート牧歌」というタイトルは後年出版されるときに付けられたもので、当初は「フィーディーの鳥の歌とオレンジの日の出をもったトリープシェン牧歌」という長いものであり、「誕生日の交響的祝賀として、彼のコジマに捧げる。彼女のリヒャルトから。」という献辞が添えられていた。フィーディーは太った鳥というような意味で、1歳だった長男ジークフリートの愛称である。「オレンジの日の出」も二人にとって個人的に意味のある言葉であったらしい。
後に「ニーベルングの指輪」やブラームスの交響曲第2番、第3番の初演者として名を残したハンス・リヒターは、このときトランペットとヴィオラを掛け持ちで担当した。本日の演奏をお聴きになり、リヒターの活躍ぶりに思いを馳せていただきたい。この曲は当時完成間近だった楽劇「ジークフリート」そして「ワルキューレ」からのライトモティーフがふんだんに使われており、間接的には大いに関係がある。どこか聞き覚えのある、耳に残るモティーフがちりばめられ、一瞬たりとも耳を離すことが難しい。若い頃熱狂的なワグネリアンであったドビュッシーはワーグナーの音楽について、「聴き手に注意深く聞くことを要求する小うるさい音楽」と評しているが、果たして現代の我々には、ワーグナーの音楽、彼とコジマ、そしてハンス・フォン・ビューローの関係についてどのように映るのだろうか。

(Va 常住 裕一)


人物相関図(1880年)by 牧子画伯より ワーグナーを抜粋

曲目解説は次ページに続きます。

曲目解説!(第6回)牧子画伯による「まんがでわかる夏の夜の夢」付き

劇音楽「夏の夜の夢」より序曲、他抜粋 Op.21/61
フェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディ

一年で最も短い夏至の夜には妖精たちの力が強まり、幻想的なことが起こる…そんな言い伝えを元にしたシェイクスピアの戯曲。パック始め個性的な妖精たちが、人間と妖精の恋 愛や結婚にまつわるあれこれをドタバタそして円満に導く。この喜劇をメンデルスゾーンが「演奏会序曲」として音楽のキャンバスに描いたのはわずか17歳の頃でした。
祖父は著名な哲学者、父は銀行家であったメンデルスゾーン家では、文化人が集う私的な演奏会が頻繁に開催され、彼自身も若い頃から音楽、絵画、文学と多方面に才能を表しました。この序曲も仲の良かった姉ファニーとピアノ連弾を楽しむために作曲され、後に管弦楽に編曲されたようです。
フルートの「妖精の和音」に導かれ、弦楽器の細かい音符に表現される幻想的な森の中へ。華やかな宮廷の音楽、コミカルな職人たちの音楽、夢見る恋人たちのテーマ、時には魔法で姿を変えたロバの嘶きが聞こえる等、序曲では劇の様々なシーンが回想されます。

序曲は単独でも人々に愛されましたが、メンデルスゾーンが34歳のとき、文化政策を進めていた当時のプロイセン国王の命により、他12曲の付随音楽が作曲されました。この頃メンデルスゾーンはユダヤ人が故の差別や、職場としていたベルリン音楽界での地位を巡る妬みに心身を疲弊させる状況にありました。そんな中初演は圧倒的成功を収め、冷遇したベルリンですら「夏の夜の夢」は喝采で受け入れられました。
妖精たちが生き生きと舞う「スケルツォ」、魔法が恋人たちを眠りに誘う美しい「夜想曲」、今日誰もが 知る名曲「結婚行進曲」など魅力に溢れた曲が並びます。

「私たちは『夏の夜の夢』に育てられたといってもいいでしょう」姉ファニーの言葉が語るように、メンデルスゾーンの人生とともにあった曲。第6回演奏会ではフラットフィル選りすぐりの抜粋でお届けいたします。

(Vla 鈴木光子)


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