平 真 実
思えば、世の中が元のままであったならば、今(2020年8月)頃は7月11日の演奏会を終え、別の演奏会の準備をしていたであろうし、人によっては夏休みの旅行を満喫していたかもしれない。また、フラットフィルのメンバーとは「また来年の演奏会で!」と再会を約して気持ちよくわかれていたのだろう。ところが、その7月11日の演奏会は中止(結果的には10月に延期)を余儀なくされ、同時に、練習計画も大きく変更せざるを得ない状況になった。言うまでもなく、コロナの影響である。まさに、この半年の間に、今まで当たり前と思っていたものが当たり前ではなくなるという激変を、社会全体で、いや、地球規模で経験している。
欧米とは違い、プロフェッショナルであれアマチュアであれ、日本での芸術活動は「不要不急」のものに分類されてしまうのだろうか。特にオーケストラなどは、舞台上に密に奏者が並び、大きな呼吸で音とタイミングを合わせ、弦楽器奏者は楽譜と譜面台も共有し、管楽器奏者はマスクをつけての演奏は不可能だ。加えて、お客さまはその音を聴けば胃が満たされるということでもなく、衛生上のメリットがあるわけでもない。つまり、少なくとも生活必需品とは言い難い。
「こんな世の中の状況で、呑気に演奏会などやってもよいのだろうか」ということも含め、当団でも、3月以降、色々な議論を重ねた。7月の演奏会開催が不可能と分かった後も、「延期してでもやるべきか・いっそやめてしまうべきか」といった議論を繰り返した。喧々諤々の議論ではあったが、最終的には「団としての感染予防対策(ルール)を策定し、それをしっかり守りつつ、今できることに最大限取り組もう」ということに加え、大仰に構えるつもりは毛頭ないが「こういう時代であるからこそ我々にできる“何か”があるはずだ」、という期待と信念もあって、延期公演開催を決定したのである。
開催を決定したまではよいが、例年とはかなり勝手が違い、色々と容易ではない。第一に、練習できる会場が圧倒的に少なくなった。会場に入れる利用人数制限はもとより、オーケストラの練習にはそもそも会場を貸さないことにした、というところも少なからず出てきている。もちろん、オーケストラのメンバーの中にも、諸々の理由から練習に参加しづらいという者や、日程が変更になったことで残念ながら出演を辞退した者もいる。さらに、練習そのものがいつもと違い過酷である。朝の検温はもとより、会場への入退場時はアルコール消毒。これだけならばまだよいが、酷暑の中、練習中も弦楽器奏者(指揮者も同様)はマスクを着用(ある奏者は「高地トレーニングをやっているようで苦しい」と言っている)し、楽譜や譜面台の共有はしない。もちろん奏者間の距離は離し、管楽器奏者は水抜きのための給水パッドを常備し適切に処理。さらには、練習後の飲み会も禁止(これを楽しみに練習に来ている者は実に多い)等々。今現在も、10月の延期公演に向けて、団員はこうしたいつもとは違う環境下での努力を重ねているのである。
演奏会を行う・そのための練習を重ねる、ということは、当然ながら外出をし、他者との接触を生むのであって、それ自体にリスクがある。さらには前述のような過酷な環境下での練習である。そうまでして演奏会を開く意味や意義は一体どこにあるのか、誰しもが納得できる答えを導くのは難しい。そんな中、音楽業界では、例えば、インターネットを使った演奏会動画の配信等々、色々な試みがなされている。それ自体はたいへん結構なことであるし、大いなる発展を期待してやまないが、一方で、これらが実際の演奏会を完全に代替でき得るのかと言えば、残念ながらそれは違う。音楽という芸術は、再現性のない、まさに「一期一会」のものなのであって、その場にいなければならない、あるいはその場にいるからこそ経験できるもの、だからである。さらには、オーケストラで使用する楽器は、電気信号や電力によって量や圧を増強するようなものは一切ない。そういう意味では、すべて一人一人の体力(人力)のみであり、誠に原始的な世界でもある。現代の、高度にデジタル化・工業化・機械化された世界とはある意味で対極にある姿なのかもしれないが、いずれにしても、そのような楽器から奏でられた音を電気信号に変えてネットを経由してスピーカーから聴いたとして、それはその音楽会そのものには決してなり得ない。もっと言えば、例えば、同じ奏者が同じ曲を演奏するにしても、昨日と今日ではまるで違う仕上がりになる。演奏者個々の体調(前の晩に飲み過ぎた、等々も含む)もあれば、気分の問題もある。それは奏者側だけではなく、聴衆もそうであろう。まさに、その日その時の演奏会場での「一期一会」なのである。
この半年の間、団員の多くも困惑の時間を過ごしたことと思う。皆で合奏する、という至極当たり前のことが叶わなくなり、孤独の中で悶々としたであろう。しかしながら、だからこそ、当たり前であったことのありがたさを痛感したであろうし、一瞬一瞬を大切にしようという思いを強くしたのではないだろうか。さらには、音楽そのものにひたむきに向き合える時間となったのではないか。ムソルグスキーが言うように「芸術とはそれ自体が目的ではない。ヒュマニティの表出の手段である」とすれば、団員一人一人が、音楽を奏でるということは「音符を正確に音に変換する作業」なのではなく、「“自分”を表現すること」なのだ、ということを強く確信したことと思う。そして個々のこうした確信は、間違いなく、演奏会において音として、また、空気感として表現・表出されるはずだ。
繰り返しになるが、このような状況下での演奏会開催の是非については色々な意見があるであろう。むしろ、不要不急と分類されるのであれば、後ろ向きな意見が多いのかもしれない。一方で、J.パウルが「芸術は人間のパンではなくても、少なくとも葡萄酒である」と述べたように、人間が単なる動物ではなく人間であるためには、こうした芸術活動は大いに意味のあるものだと信じる。もちろん、社会的要請である感染予防対策はしっかりとした上で。
詳しくは演奏曲解説をご覧いただくこととしたいが、今回のメイン曲には、ベートーヴェンの交響曲第7番を選んだ。選曲したのは昨年末であったので、いまの状況は予想だにしていなかったが、結果的には時宜にかなった選曲だったと思う。第5番や第9番のような「困難を乗り越えて勝利へ」というドラマ性・ストーリ性のある曲とは違い、第7番は二楽章を除けば過ぎるほど明るい曲調、もっと言えば「躁状態」の音価が、こういう世情であるからこそ重みや深い意味を持つ。「生きることとはこういうことなのだ」「どんなことがあっても前を向いて生きていくのだ」ということが、単なる言葉ではなく切実なものとして迫ってくる。
限られた、かつ過酷な環境下で、満足に練習もできない中ではあるが、なんとか10月18日を無事に迎えたいと心より思う。そして、ご来場の皆様には、奏者一人一人のヒュマニティの現出を見届けていただきたいし、また、楽聖たちの素晴らしい作品を通じた「音場」、その一期一会の瞬間をともに過ごしていただけることを願ってやまない。