曲目解説!(第7回)牧子画伯挿絵入り

交響曲第一番ホ長調
ハンス‐ロット

ハンス・ロットー夭逝の作曲家である彼の名は、あまり広くは知られていない。
100年以上忘れ去られていた彼の交響曲は、マーラーが度々言及したその名に注目した音楽学者によって発見され、1989年になってようやく初演された。
ハンス・ロットは1858年にウィーン近郊で生まれ、16歳の時にウィーン音楽院に入学する。14歳で母を、続いて在学中の18歳の時に父親も亡くすが、その才能から授業料の免除や奨学金を認められ、教会オルガニストのアルバイトをしながら学業を続ける。この時、2歳年下のマーラーら学友達と修道院で生活を共にしている。

交響曲第1番の第1楽章は、1878年、ロット20歳の時に、作曲科の修了課題として作曲コンクールへ提出するために書かれた。楽壇の保守的な風潮を敢えて無視し、湧き上がるままに書き上げられたロットの作品は、『あまりにワーグナー風である』と審査員らの嘲笑を買う。ロットのオルガンの師であり彼の才能を認めていたブルックナーの擁護にも関わらず、応募者の中でロットのみが落選。尚、一位を獲得したのはマーラーだったが、その作品は散逸してしまっている。
同年、教会オルガニストの職を失ったロットは、不本意ながら友人の援助を受けて生活する事になる。落選の失意と困窮の中にありながらも、続く3つの楽章の作曲に力を注ぎ、2年後には交響曲第1番を完成させる。
経済的な独立と、己の音楽への承認、そして故郷であり生涯唯一の想い人の住む街であるウィーンでの生活。孤独なロットにとってこれらは切迫した願いであり、交響曲第1番はウィーンで作曲家として自立するための切り札だった。

曲の完成から二か月半の間に、ウィーン・フィルの指揮者ハンス・リヒターへの上演交渉、文部省への奨学金申請、コンクールへの応募、さらにそれらの審査員訪問、とロットは忙しく動き回る。しかし、権威ある審査員であり敬愛するブラームスからの酷評、続くリヒターとの上演交渉の決裂により、希望は絶望に変わり、ロットの張りつめた精神の糸はぷっつりと切れてしまう。
ウィーンでの自立を断念し、合唱指揮の職に就くため地方へ向かう列車内、ロットは煙草に火をつけようとした同乗者を制止すべくピストルを突き付ける。ブラームスが列車にダイナマイトを仕掛けた、との妄想に取り憑かれ錯乱したのだ。

この出来事により精神病院に収容された数か月後、皮肉にも奨学金の審査が通るが、ロットは既にそれを活かせる状況にはなかった。ウィーンへ戻る希望を語りながらも、やがて精神状態は悪化して自殺未遂を繰り返し、1番の完成後すぐに着手していた交響曲第2番など多くの作品を破棄してしまう。1884年、遂に病院を出る事なく、結核を患い25歳で他界。ロットが自らの交響曲の実演を聴くことはなかった。

残されたロットの作品は、友人たちの手によってオーストリア国立図書館に納められた。彼の交響曲はお蔵入りとなり、長い間人目に触れることはなかった。ただ一人、学友マーラーを除いては。
ロットの交響曲を耳にすれば、マーラーの交響曲との類似に驚くが、マーラーが初めての交響曲に着手したのはロットの死後の事。マーラーはロットの交響曲の総譜を度々借り出して研究を重ねており、自らの交響曲に、ロットの発想や旋律をも取り入れた事は疑う余地がない。後のマーラー曰く「自分ととても資質が近く、同じ木に実った二つの果実のような」不遇の友人の成し得なかった事を、友人にかわり実現しようとしたのかも知れない。
ワーグナーやブルックナーからの影響を大いに受け、後のマーラーの源流となるほど革新的でありながら、保守派筆頭であるブラームスへのオマージュをも堂々と盛り込んだロットの交響曲。恐れを知らない若者の、情熱とアイデアと希望の詰め込まれたこの作品は、青春の記憶を揺さぶる瑞々しい音楽となっている。

(Vn 菊地 牧子)

題人物相関図(1880年)by 牧子画伯